心くばり

大忍――情を添える〈16〉

 上から数えて二十五番目の取締役が社長に就任した、昭和五十二年二月の松下電器の社長交代は、その意外さで世間をあっと言わせ、マスコミ、財界の格好の話題となった。その新社長の就任からし

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奥さん、長いあいだどうもありがとう――情を添える〈15〉

 公の席では滅多に妻むめののことを口にしない幸之助が、松下電器の創業五十周年の記念式典にはむめのとともに出席した。そして、社員への挨拶のなかで、つぎのように語った。 「私は"奥

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真夜中の出社――情を添える〈14〉

 PHP研究所がまだ真々庵にあった昭和三十年代のことである。幸之助は、非常に懇意にし、尊敬もしていた経営者の葬儀が翌日にあるということで、友人代表で読む弔辞の作成に取り組んでい

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病と仲よく――情を添える〈13〉

 ある幹部社員が病に倒れ、入院した。「一年くらいの療養が必要」「絶対安静」「面会謝絶」とつぎからつぎに出される医師からの宣告に、すっかり気落ちしてうつうつとベッドに身を横たえて

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外国語がわからんので......――情を添える〈12〉

 昭和十年から数年にわたって、幸之助は、今でいう社内誌にあたる『歩一会会誌』という小冊子に、みずからの生いたち、事業の変遷などを書きつづっていた。大阪の門真から、そのころ幸之助

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思いがけない餞別――情を添える〈11〉

 昭和二十四年、戦後の混乱のなかで、松下電器はそれまでの歴史にもその後の歴史にもない、解雇や依願退職を募るという異例の対策を講じつつあった。そうしたなかで、戦前からデザイナーと

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社員の顔を覚える――情を添える〈10〉

 京都東山山麓の真々庵でまだPHP活動を行なっていたころのことである。  幸之助の留守中、たまたま真々庵見学の機会を得た松下電器の社員が、ある部屋の一隅に小さな屏風が立てかけ

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心のこもったお弁当――情を添える〈9〉

 昭和三十三年五月、幸之助が工場建設候補地の検分のため、神奈川県湘南地区を訪れた。辻堂工場と蓄電池工場の責任者が案内役を務めて、何カ所かを丹念に調べ、終わった時刻は十二時を少し

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成功の秘訣は夫婦円満――情を添える〈8〉

 昭和五十六年三月十七日、テレビ朝日の「溝口モーニングショー」で、幸之助は珍しく妻むめのについて語っている。    ――奥様のお年は。  幸之助 八十四歳。

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叱ってもらえる幸せ――情を添える〈7〉

 あるとき、すでにかなりの地位にある社員が、ふとした過ちを犯した。これは見過ごしにはできないということで、幸之助は譴責状を渡して注意することにした。 「きみのやったことに

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「紅白歌合戦」のマイクロホン――情を添える〈6〉

 マイクロホンの研究開発を担当していたある社員の夢は、NHKの「紅白歌合戦」でナショナルのマイクロホンを使ってもらうことであったが、十年に及ぶ努力が実を結んで、ある年、ついに自

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きみ、いちばん上手や――情を添える〈5〉

 昭和三十年代の後半、PHPの研究が真々庵で行なわれていたころのことである。幸之助が長時間、原稿に目を通したり、考えごとを続けて肩がこったとき、数人の若い所員に順番で肩もみの役